掲示板(6月)

2020年6月15日


仏教には、阿弥陀仏以外に、いろんな仏・菩薩方がおられます。

釈迦如来、大日如来、薬師如来、観音菩薩などです。そして、それらの仏・菩薩方をご本尊として拝んでいるのです。

しかし、真宗門徒において、阿弥陀仏をご本尊とはいいません。

親鸞聖人は、六字の名号、または「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号、「南無 不可思議光如来」の九字名号をご本尊とされたのです。

阿弥陀仏ではなく、「南無阿弥陀仏」がご本尊なのです。
普通私たちは、阿弥陀仏に南無するのは私の方だと思っています。

しかし、私に南無するこころなどあるのでしょうか。

邪見憍慢の私たちに阿弥陀仏に帰命するこころなどどこを探しても無いのです。

それを見抜いたのが阿弥陀仏です。

「南無」を回向するために、五劫の思惟・兆載永劫の修行によって南無阿弥陀仏となって下されたのです。

南無は「我をたのめ」の呼び声・勅命です。

その勅命が、聞法を通して私に至り届いたのが「助けたまえと弥陀をたのむ」信心なのです。(老僧)

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掲示板(5月)

2020年5月16日


最近、「生かされているいのち」「如来さまから賜ったいのち」という言葉を聞くことがあります。

そして、これが浄土真宗の教えであるかの如く使われているように思われます。

しかし、この言葉は、仏教以外でもいろんな宗教で使われている言葉であり、何も浄土真宗の専売特許でもありませんし、これが正しい浄土真宗の教えなのかと違和感を感じることがあります。

仏法は、いのちの有り方を「生死(しょうじ)」といいます。

「迷いをへ巡る」という意味ですが、生には必ず死があります。そして、私たちのいのちは迷いのいのちです。

いろんなことに悩み苦しみ迷っていくいのちです。

死でもって決して終りでなく、生死流転(しょうじるてん)していくいのちを生きているのです。

「生かされているいのち」という言葉は、いのちの表面だけを表わしているように感じます。

「生かされているいのち」という言葉を使うならば、迷いを超えて、往生浄土の道を歩まさせていただくいのちのよろこびとして使いたいものです。

満開に咲きほこる桜の花も、やがて散りゆくことを直観するから美しいのです。(老僧)

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掲示板(4月)

2020年4月15日


 私たちは、「命の尊さ」ということを口にします。

親が幼い子供を虐待したり、生徒がいじめに会って自殺すると、いのちの大切さが分からないのかと情けない気持がします。

しかし考えてみますと、いのちはなぜ尊いといえるのでしょうか。

いのちあっての人生だからとか、誰にも代わってもらえない一回限りのものだからといわれますが、何か説得力がありません。

何よりも、私たちは自分のいのちは尊いと思っているのでしょうか。それは、自分の都合のよい時だけです。

病気になったり、老いぼれてくると、死んだほうがましだと思ったりするのではないでしょうか。私たちのいのちは、自我に覆われています。

いのちが尊いといっても、都合によってころころ変わるのです。結局、人生はこんなもんだと変に納得して死んでいくのではないでしょうか。

仏法を聞く身になって、いのちよりも尊いものに出遇った時に、いのち尊しと手が合わさるのです。(老僧)

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掲示板(3月)


 蓮如上人の御文(おふみ)に、「無始よりこのかたの無明業障(むみょうごうしょう)のおそろしきやまい」というお言葉があります。

私たちはおそろしい病をかかえて、この人間に生まれてきたのです。私たちは、何か少し身体の調子が悪いとすぐお医者さんに見てもらいます。

しかし、この「おそろしきやまい」に気づくことはありません。

これは、仏法を聞いて初めて気づかせていただくことでありますが、仏法を聞いても一生気づかずして「おそろしきやまい」をかかえたまま死んでいくのです。

「おそろしきやまい」とは無明業障ということでありますが、無明とは智慧がないということです。

智慧がないとどうなるかというと、この我身に愛着して己が己と我をたてていくのです。これがすべて煩悩の元となり、深い迷いの業を造っていくのです。私たちは如来さまの深いお育てのなかで、お念仏申して、この我が破れる時が来るのです。

「自己の誕生」とは、我執によって生きる私でなく、無明業障という深い闇をかかえたまま、助けねばやまぬという如来の本願をいのちとして生きる新しい私が誕生するのです。
(老僧)

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掲示板(2月)


 「大無量寿経」には弥陀の本願が説かれていますが、それは法蔵菩薩の物語として説かれています。

久遠の昔(いにしえ)、一人の国王がおられ、世自在王仏の説法を聞いて深い悦びを感じ、出家して法蔵と名告りました。

そして、世自在王仏のみもとで、迷いの衆生を一人残らず救い取りたいという大いなる願いをたてられます。

そして、生死流転していく迷いの衆生の有り方をどこどこまでも見届け、一人ももれることなく摂取する浄土を壮厳するため、五却という計り知れない時をかけた思惟に入られます。

そして、その誓いを成就せんため、兆載永却(ちょうさいようごう)という長い修行をされて浄土が荘厳され、願いが成就して、法蔵菩薩は南無阿弥陀仏となられたと説かれています。

このような物語は信じられないかも知れませんが、これは物語を通して宗教的真実を表わしているのです。奥能登の農婦の方は、この宗教的真実を我身の上にいただかれました。

法蔵菩薩の物語は、私を離れてあるのではありません。今現に、南無阿弥陀仏は法蔵菩薩となって、私の煩悩のなかに働いて下さっているのです。
(老僧)

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掲示板(1月)


よく仏法聴聞される方が、「聞かせていただいている間は有難いのですが、お寺の門を出るとすっかり忘れてしまいます」と言われます。

これは私も常に経験することです。

よき先生の話を聞いても、寺へ帰ってくるとすっかり忘れてしまいます。

そのときは筆記したノートを見て確かめることにしています。浄土真宗の聴聞において一番欠けていることは、聞いたことを我身に引き当てて考えて見るということです。

『大経』には法蔵菩薩の物語が出ていますが、法蔵菩薩は一切の迷える衆生を仏とするため、その手立を見つけるまでに、五劫の間思惟されたとあります。私一人を助けるため五劫の間考え抜かれたのです。

思惟を内観ともいいます。内観とは、自分を深く見つめるということです。智慧の念仏といわれますが、如来さまの智慧が念仏なのです。

だから、念仏申せば自分が見えるのです。自分が見えるということは、自分の煩悩が見えるということです。

そして、念仏申せば内観深まり、内観深まればいよいよ念仏が申されるのです。
(老僧)

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掲示板

2019年12月17日


西雲寺の掲示板に書かれている言葉を紹介します。

浄土真宗の教えは、お経に「聞其名号、信心歓喜(その名号を聞いて、信心歓喜せん)」とありますように「聞」の宗教です。

お念仏は称えるまま、そのいわれ、響きを聞かせていただくのです。

「南無阿弥陀仏」とは、如来さまが、迷いの一切の衆生を救わんと、私たちのために「南無阿弥陀仏」と名告り出て下さったのです。そして、その六字の名号を衆生に聞かしめ、称えしめて救おうと、今現に私の上にはたらいていて下さっているのです。

母親というものは、子どもを授かると、ただ一心に何の計らいもなく子どもを産み育てます。

そして、やがて赤ん坊は、「ママ」「母ちゃん」と親の名前を呼ぶようになります。

これが、母親になった何よりの喜びです。

子が親を呼ぶ声は、子どもの力でなく、母親の念力が呼ばしめたものです。

それと同じように、私にお念仏申す力はありません。我が名を称えせしめんという願力がはたらいて、強情な私の口を割ってお念仏が出て下さるのです。

我が名を称えよとの仰せは、久遠の親ごころの表現です。私たちがお念仏申すということは、この親ごころを聞いていくことなのです。そして、如来さまの内なる我を知らされるのです。

み仏をよぶわが声は、み仏のわれをよびます、み声なりけり(甲斐和里子)

【老僧】

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