2020年5月16日
最近、「生かされているいのち」「如来さまから賜ったいのち」という言葉を聞くことがあります。
そして、これが浄土真宗の教えであるかの如く使われているように思われます。
しかし、この言葉は、仏教以外でもいろんな宗教で使われている言葉であり、何も浄土真宗の専売特許でもありませんし、これが正しい浄土真宗の教えなのかと違和感を感じることがあります。
仏法は、いのちの有り方を「生死(しょうじ)」といいます。
「迷いをへ巡る」という意味ですが、生には必ず死があります。そして、私たちのいのちは迷いのいのちです。
いろんなことに悩み苦しみ迷っていくいのちです。
死でもって決して終りでなく、生死流転(しょうじるてん)していくいのちを生きているのです。
「生かされているいのち」という言葉は、いのちの表面だけを表わしているように感じます。
「生かされているいのち」という言葉を使うならば、迷いを超えて、往生浄土の道を歩まさせていただくいのちのよろこびとして使いたいものです。
満開に咲きほこる桜の花も、やがて散りゆくことを直観するから美しいのです。(老僧)