蓮如上人の御文(おふみ)に、「無始よりこのかたの無明業障(むみょうごうしょう)のおそろしきやまい」というお言葉があります。
私たちはおそろしい病をかかえて、この人間に生まれてきたのです。私たちは、何か少し身体の調子が悪いとすぐお医者さんに見てもらいます。
しかし、この「おそろしきやまい」に気づくことはありません。
これは、仏法を聞いて初めて気づかせていただくことでありますが、仏法を聞いても一生気づかずして「おそろしきやまい」をかかえたまま死んでいくのです。
「おそろしきやまい」とは無明業障ということでありますが、無明とは智慧がないということです。
智慧がないとどうなるかというと、この我身に愛着して己が己と我をたてていくのです。これがすべて煩悩の元となり、深い迷いの業を造っていくのです。私たちは如来さまの深いお育てのなかで、お念仏申して、この我が破れる時が来るのです。
「自己の誕生」とは、我執によって生きる私でなく、無明業障という深い闇をかかえたまま、助けねばやまぬという如来の本願をいのちとして生きる新しい私が誕生するのです。
(老僧)