掲示板(2月)


浄土真宗は『大無量寿経』によってお浄土を説く教えです。

そのお浄土はどこにあり、どういただけばよいのでしょうか。

浄土に対して、私たちが住んでいるこの娑婆(しゃば)を穢土(えど)といいます。私たちの煩悩によって穢(けが)された世界です。私たちは毎日毎日煩悩によって業をつくりこの世を汚しているのです。

しかし、私たちがこの事に目覚めて生きるということは容易ではありません。

この目覚めることなく迷っていく我ら衆生に対して、阿弥陀如来は迷いを超えたまことの世界に一人残らず救い取りたいという大願を起こされたのです。

計り知れない永却の時を経て、この願いはかない、大悲によって荘厳されたお浄土は成就されたのです。そしてお浄化から「我が名を称えて我が国に還れ」という大悲の呼び声が南無阿弥陀仏と聞えてくるのです。

お浄土こそは「我らのいのちの本来の世界」であり「懐(なつ)かしい魂の故郷」であったのです。

そして私たちが執着してやまないこの娑婆は「他郷(たきょう)であったと知らされるのです。

お浄土はこの娑婆を生きる悲しみや苦しみのなかにお念仏申すところにいただけてくる世界です。 (老僧)

掲示板 7月24日

一声のお念仏はまことに尊いものでありますが、なかなか称えられるものではありません。

昔からお念仏のおいわれを聞くのが聴聞だといわれますが、この南無阿弥陀仏の六字のみ名に如来さまの大悲のおこころのすべて、そして私たちの救われる道理があらわされているのです。

その道理を「機法一体(きほういったい)」の道理といいます。

機とは、南無阿弥陀仏の法によって救われていく私たちのことです。

法とは、この私たちを必ず救おうという阿弥陀の法です。

阿弥陀仏は「機法一体」となって私たちを救おうとされるのです。

南無という機をおさえれば、罪悪深重という「助からない機」、法は「いかなる罪業のものも助けよう」という阿弥陀仏の法のはたらきです。

この南無阿弥陀仏の六字のみ名に永遠に救いのない機、その機を救おうという法がはたらいているのです。

私たちは南無阿弥陀仏という六字のみ名を仰いで、「南無の機」をつかまなければなりません。

そこに罪悪深重の助からない私としての南無の座を賜るのです。

そこに出て下さるのが、まことの念仏です。 (老僧)

掲示板(3月30日)


掲載が遅くなってしまいましたが、3月の掲示板です。

ふきのとうが食卓をにぎわし、梅の花が咲きほこり、待ち遠しい春の訪れを感じさせてくれる頃となりました。

私は小鳥が好きで、以前イカル(まめころばし)を飼っていましたが、これも春告げ鳥です。

しかし、ここ数年その鳴き声を聞いたことがありません。

さて、春告げ鳥の代表はうぐいすですが、いつ鳴いてくれるのか待ち遠しいことです。皆さんはうぐいすが鳴いたのは春になったからであると思われるかもしれませんが、そうでは ありません。

春の陽気に催されてうぐいすが鳴いたのです。大地の中に眠っていたミミズやカエル、蛇たちも春の陽気に催されてもぞもぞしていることでしょう。

私たちがお念仏申すのも同じことです。私が賢くてお念仏申すのではありません。弥陀の本願の催しによって念仏申させていただくのです。十劫(じっこう)の昔より、本願の名号が私たちに念仏申せと呼んでいて下さるのです。(老僧)

↑ PAGE TOP

掲示板(2月16日)


仏法を聞かせていただくほどむつかしいことはありません。

仏法を聞かせていただくとは、如来の智慧を賜って我身のすがたを知らせていただくことです。

しかし私には、既に自分というものが確立されてしまっていて、自分と仏法との間に大きな壁が存在するのです。

仏法は、私にとってどこまでも知恵や教養であり、たとい悦ばさせていただきましたと言っても自分の思いにかなったというだけのことにすぎません。私たちは、どこまでも仏法に背を向けた救われない存在なのです。

しかし、救われない存在であることを本当に知らされたならば、そこに慚愧(ざんぎ)があるのです。慚愧のこころがお念仏となって下さるのです。しかし親鸞聖人は、自分には慚愧のこころさえもないと言われるのです。ご和讃をいただきましょう。(老僧)

 無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀回向(みだえこう)の御名(みな)なれば
 功徳は十方にみちたもう
  (正像末和讃)

↑ PAGE TOP

掲示板(1月18日)


「あえぐように生きているというほかない」

これは、大谷派の学僧・安田理深先生の晩年のお言葉です。
お弟子が「いかがお暮しですか」とお尋ねしたところ、「あえぐように生きているというほかない」というお返事だったそうです。


安田先生は在家のお生まれで、一生僧籍も持たず定職にもつかず、哲学、仏教そして真宗の教えを究め、一生請われるまま全国に仏法を説いて一生を終えられた方です。


私はこのお言葉に深いものを感ずるのです。「あえぐように生きている」というお言葉は、単に老齢になったからというのではないと思われます。私たちも、あえぎながら生きているのではないでしょうか。家族のこと、仕事のこと、お金のこと、病気のこと、老いのことなど、あえぎながら生きているのです。昨年からコロナウイルスが私たちの生活に暗い陰をおとしています。


安田理深先生のこのお言葉に、私は「あえぎながらお念仏に背中を押されて生きているのだ。そして、あえぐように私は仏法を求めているのだ」とおっしゃっているように思われるのです。(老僧)

↑ PAGE TOP

掲示板(12月)

2020年12月21日


 残り少なくなった人生をふと立ち止まって、自分はどのような人生を歩んできたのだろうと考えることがあります。

過去に思いを致すと、あまり良いことは浮かんできません。

やはり、ああすれば良かった、こうすれば良かったという愚痴と悔恨の念に嘖(さいな)まされることが度々あります。

なかなか良い人生を歩んだと思われないのです。

『歎異抄』には、宿業という言葉が出てきます。

何か重く暗い感じがします。

宿業の「宿」は過去という意味で、宿業とは私が嚝劫流転(こうごうるてん)してきた過去において造ってきた業なのです。

この業が今の私の人生となっているのです。

ある師の言葉に「宿業というのは、自分が自分になったという責任感なのです」とあります。

確かに私の人生は誰が作ったのでもなく、私が作った人生なのです。

親鸞聖人の言葉に「たまたま行信を獲()ば遠く宿縁を慶べ」とあります。

行信とは、本願に目覚めた信心です。

私たちは法蔵因位(ほうぞういんに)の願心と生死流転(しょうじるてん)の衆生の宿業を引き受けて歩んでいて下さる。

兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行をいただけば、私の暗い宿業が仏法に出遇うための尊いご縁であったといただくことができるのです。

私の人生が明るみの中に転ぜられてかたじけないと頂けるのです。(老僧)

 ↑ PAGE TOP

掲示板(10月)

2020年10月26日


勿体なや 祖師は紙衣の九十年 (句仏上人)

 これは俳人として有名な西本願寺の句仏(くぶつ)上人といわれた方のうたです。

報恩講に当たりしみじみと親鸞聖人のご苦労が偲ばれます。

紙衣とは紙子ともいい、和紙に柿渋を塗り揉み柔らげて衣にしたものです。

足には草鞋(わらじ)を履き、紙衣の衣で90年を過ごされたのです。

親鸞聖人が35歳の時に、奈良や比叡山の聖道門仏教の上訴により法然上人の吉水の教団が取りつぶされ、法然上人は土佐に、親鸞聖人は越後に流罪となりました。

罪が許されて後42歳から63歳まで常陸(ひたち)の国(茨城県)を中心に20年間、紙衣の衣に草鞋履きでお念仏の教えを説いてくださったのです。

親鸞聖人には「石を枕に雪をしとねに」ということばがあります。

雪の降りしきる夜、日野左エ門という金貸に一夜の宿を請いますが断られ、屋根の下に石を枕に雪を布団にして一夜を過ごされたといわれます。

枕石寺としてご旧跡が残っています。 (老僧)

  ↑ PAGE TOP

掲示板(9月)

2020年9月27日


仏法において、無明煩悩とか無明業障(むみょうごっしょう)という言葉があります。

それらは、「私」という深い執着の殻の中から一歩も出られない迷いの有り方を表しているのです。

私たちは、自分を確かなものとして、自己を主張して生きてきました。

そこには仏教で説くように、他の存在との関わりの中で生まれ今まで生きてきながら、他の存在は私の身体の中を通りすぎる風景でしかないのです。

他人の悲しみや苦しみ、喜びは、私にとって一つの「話」であり、私のいのちの中に食い込んでこないのです。

寄り添う」という言葉がよく使われますが、他の人たちの悲しみや苦しみに寄り添うことほど難しいことはありません。

本当に寄り添うことは、仏さまにしかできないことではないでしょうか。

そこに凡夫としての悲しみがあるのです。

私たちは、癌になればお医者さんにかかります。

しかし、無明業障という恐ろしい病にかかっても、自覚することはできません。

そこに、弥陀の大悲がこの私にそそがれていることを知らせていただく以外にありません。(老僧)

↑ PAGE TOP

掲示板(8月)

2020年8月13日


新型コロナウイルスの再拡大が懸念されている。

2月のダイアモンドプリンセス号の乗客乗員の感染から始まって、7か月にわたって、日本中、世界中がコロナウイルスとの闘いを強いられ、終息の気配が見られない。

コロナウイルスが怖いのは、感染者の2割程度が重症化して死亡する可能性があるからである。

私たちは、日頃死を自覚することはほとんどないが、コロナウイルスによって死が身近に感じられ、恐怖心を覚えるのである。

コロナウイルスは確かに怖いが、これを人類の敵として闘うというのは、どうも大人気ない感じがしてならない。

「ウイルスも、みないのちある、地球族の一つである」

という先輩の言葉に感銘を受けるものである。

私たちは、もっと広いこころをもってコロナウイルスを受け入れ、終息してもコロナウイルスが地球上から無くなるわけではないので、今後とも長く付き合っていく覚悟をしなければならないのである。 (老僧)

↑ PAGE TOP

掲示板(7月)

2020年7月15日


私たちは、厳粛な身の事実を生きています。

生・老・病・死という事実です。身の事実を宿業といいます。

しかし、私たちは、生・老・病・死という身の事実を解釈して老・病・死を遠ざけ、不安と虚しさのなかを生きているのです。

親鸞聖人は、『歎異抄』のなかで「善悪ともに宿業」といっておられます。

私たちの善悪の行為も宿業です。

しかし、私たちは、悪を憎み、自分は善人だと思っています。

私が自分の一生を振り返ってみますと、人間として生まれたのも、私が寺の長男として生まれたのも、自分の計いではありません。

すべて宿業です。あと何年か生きて死んでいくのも宿業です。

自分の思い通りにはなりません。

弥陀のご本願は、妄念・妄想で迷っている私たちを、身の事実、宿業の身に呼び返して下さるおはたらきです。

宿業の身に如来さまがはたらいていて下さるのです。

私たちの知恵では、宿業の身に目覚めることはできません。

久遠却より如来さまのご本願は私の宿業を引き受けて歩んでいて下さるのです。(老僧)

↑ PAGE TOP