2019年12月17日
西雲寺の掲示板に書かれている言葉を紹介します。
浄土真宗の教えは、お経に「聞其名号、信心歓喜(その名号を聞いて、信心歓喜せん)」とありますように「聞」の宗教です。
お念仏は称えるまま、そのいわれ、響きを聞かせていただくのです。
「南無阿弥陀仏」とは、如来さまが、迷いの一切の衆生を救わんと、私たちのために「南無阿弥陀仏」と名告り出て下さったのです。そして、その六字の名号を衆生に聞かしめ、称えしめて救おうと、今現に私の上にはたらいていて下さっているのです。
母親というものは、子どもを授かると、ただ一心に何の計らいもなく子どもを産み育てます。
そして、やがて赤ん坊は、「ママ」「母ちゃん」と親の名前を呼ぶようになります。
これが、母親になった何よりの喜びです。
子が親を呼ぶ声は、子どもの力でなく、母親の念力が呼ばしめたものです。
それと同じように、私にお念仏申す力はありません。我が名を称えせしめんという願力がはたらいて、強情な私の口を割ってお念仏が出て下さるのです。
我が名を称えよとの仰せは、久遠の親ごころの表現です。私たちがお念仏申すということは、この親ごころを聞いていくことなのです。そして、如来さまの内なる我を知らされるのです。
み仏をよぶわが声は、み仏のわれをよびます、み声なりけり(甲斐和里子)
【老僧】