掲示板(12月)

2020年12月21日


 残り少なくなった人生をふと立ち止まって、自分はどのような人生を歩んできたのだろうと考えることがあります。

過去に思いを致すと、あまり良いことは浮かんできません。

やはり、ああすれば良かった、こうすれば良かったという愚痴と悔恨の念に嘖(さいな)まされることが度々あります。

なかなか良い人生を歩んだと思われないのです。

『歎異抄』には、宿業という言葉が出てきます。

何か重く暗い感じがします。

宿業の「宿」は過去という意味で、宿業とは私が嚝劫流転(こうごうるてん)してきた過去において造ってきた業なのです。

この業が今の私の人生となっているのです。

ある師の言葉に「宿業というのは、自分が自分になったという責任感なのです」とあります。

確かに私の人生は誰が作ったのでもなく、私が作った人生なのです。

親鸞聖人の言葉に「たまたま行信を獲()ば遠く宿縁を慶べ」とあります。

行信とは、本願に目覚めた信心です。

私たちは法蔵因位(ほうぞういんに)の願心と生死流転(しょうじるてん)の衆生の宿業を引き受けて歩んでいて下さる。

兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行をいただけば、私の暗い宿業が仏法に出遇うための尊いご縁であったといただくことができるのです。

私の人生が明るみの中に転ぜられてかたじけないと頂けるのです。(老僧)

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掲示板(10月)

2020年10月26日


勿体なや 祖師は紙衣の九十年 (句仏上人)

 これは俳人として有名な西本願寺の句仏(くぶつ)上人といわれた方のうたです。

報恩講に当たりしみじみと親鸞聖人のご苦労が偲ばれます。

紙衣とは紙子ともいい、和紙に柿渋を塗り揉み柔らげて衣にしたものです。

足には草鞋(わらじ)を履き、紙衣の衣で90年を過ごされたのです。

親鸞聖人が35歳の時に、奈良や比叡山の聖道門仏教の上訴により法然上人の吉水の教団が取りつぶされ、法然上人は土佐に、親鸞聖人は越後に流罪となりました。

罪が許されて後42歳から63歳まで常陸(ひたち)の国(茨城県)を中心に20年間、紙衣の衣に草鞋履きでお念仏の教えを説いてくださったのです。

親鸞聖人には「石を枕に雪をしとねに」ということばがあります。

雪の降りしきる夜、日野左エ門という金貸に一夜の宿を請いますが断られ、屋根の下に石を枕に雪を布団にして一夜を過ごされたといわれます。

枕石寺としてご旧跡が残っています。 (老僧)

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掲示板(9月)

2020年9月27日


仏法において、無明煩悩とか無明業障(むみょうごっしょう)という言葉があります。

それらは、「私」という深い執着の殻の中から一歩も出られない迷いの有り方を表しているのです。

私たちは、自分を確かなものとして、自己を主張して生きてきました。

そこには仏教で説くように、他の存在との関わりの中で生まれ今まで生きてきながら、他の存在は私の身体の中を通りすぎる風景でしかないのです。

他人の悲しみや苦しみ、喜びは、私にとって一つの「話」であり、私のいのちの中に食い込んでこないのです。

寄り添う」という言葉がよく使われますが、他の人たちの悲しみや苦しみに寄り添うことほど難しいことはありません。

本当に寄り添うことは、仏さまにしかできないことではないでしょうか。

そこに凡夫としての悲しみがあるのです。

私たちは、癌になればお医者さんにかかります。

しかし、無明業障という恐ろしい病にかかっても、自覚することはできません。

そこに、弥陀の大悲がこの私にそそがれていることを知らせていただく以外にありません。(老僧)

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掲示板(8月)

2020年8月13日


新型コロナウイルスの再拡大が懸念されている。

2月のダイアモンドプリンセス号の乗客乗員の感染から始まって、7か月にわたって、日本中、世界中がコロナウイルスとの闘いを強いられ、終息の気配が見られない。

コロナウイルスが怖いのは、感染者の2割程度が重症化して死亡する可能性があるからである。

私たちは、日頃死を自覚することはほとんどないが、コロナウイルスによって死が身近に感じられ、恐怖心を覚えるのである。

コロナウイルスは確かに怖いが、これを人類の敵として闘うというのは、どうも大人気ない感じがしてならない。

「ウイルスも、みないのちある、地球族の一つである」

という先輩の言葉に感銘を受けるものである。

私たちは、もっと広いこころをもってコロナウイルスを受け入れ、終息してもコロナウイルスが地球上から無くなるわけではないので、今後とも長く付き合っていく覚悟をしなければならないのである。 (老僧)

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掲示板(7月)

2020年7月15日


私たちは、厳粛な身の事実を生きています。

生・老・病・死という事実です。身の事実を宿業といいます。

しかし、私たちは、生・老・病・死という身の事実を解釈して老・病・死を遠ざけ、不安と虚しさのなかを生きているのです。

親鸞聖人は、『歎異抄』のなかで「善悪ともに宿業」といっておられます。

私たちの善悪の行為も宿業です。

しかし、私たちは、悪を憎み、自分は善人だと思っています。

私が自分の一生を振り返ってみますと、人間として生まれたのも、私が寺の長男として生まれたのも、自分の計いではありません。

すべて宿業です。あと何年か生きて死んでいくのも宿業です。

自分の思い通りにはなりません。

弥陀のご本願は、妄念・妄想で迷っている私たちを、身の事実、宿業の身に呼び返して下さるおはたらきです。

宿業の身に如来さまがはたらいていて下さるのです。

私たちの知恵では、宿業の身に目覚めることはできません。

久遠却より如来さまのご本願は私の宿業を引き受けて歩んでいて下さるのです。(老僧)

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掲示板(6月)

2020年6月15日


仏教には、阿弥陀仏以外に、いろんな仏・菩薩方がおられます。

釈迦如来、大日如来、薬師如来、観音菩薩などです。そして、それらの仏・菩薩方をご本尊として拝んでいるのです。

しかし、真宗門徒において、阿弥陀仏をご本尊とはいいません。

親鸞聖人は、六字の名号、または「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号、「南無 不可思議光如来」の九字名号をご本尊とされたのです。

阿弥陀仏ではなく、「南無阿弥陀仏」がご本尊なのです。
普通私たちは、阿弥陀仏に南無するのは私の方だと思っています。

しかし、私に南無するこころなどあるのでしょうか。

邪見憍慢の私たちに阿弥陀仏に帰命するこころなどどこを探しても無いのです。

それを見抜いたのが阿弥陀仏です。

「南無」を回向するために、五劫の思惟・兆載永劫の修行によって南無阿弥陀仏となって下されたのです。

南無は「我をたのめ」の呼び声・勅命です。

その勅命が、聞法を通して私に至り届いたのが「助けたまえと弥陀をたのむ」信心なのです。(老僧)

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掲示板(5月)

2020年5月16日


最近、「生かされているいのち」「如来さまから賜ったいのち」という言葉を聞くことがあります。

そして、これが浄土真宗の教えであるかの如く使われているように思われます。

しかし、この言葉は、仏教以外でもいろんな宗教で使われている言葉であり、何も浄土真宗の専売特許でもありませんし、これが正しい浄土真宗の教えなのかと違和感を感じることがあります。

仏法は、いのちの有り方を「生死(しょうじ)」といいます。

「迷いをへ巡る」という意味ですが、生には必ず死があります。そして、私たちのいのちは迷いのいのちです。

いろんなことに悩み苦しみ迷っていくいのちです。

死でもって決して終りでなく、生死流転(しょうじるてん)していくいのちを生きているのです。

「生かされているいのち」という言葉は、いのちの表面だけを表わしているように感じます。

「生かされているいのち」という言葉を使うならば、迷いを超えて、往生浄土の道を歩まさせていただくいのちのよろこびとして使いたいものです。

満開に咲きほこる桜の花も、やがて散りゆくことを直観するから美しいのです。(老僧)

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掲示板(4月)

2020年4月15日


 私たちは、「命の尊さ」ということを口にします。

親が幼い子供を虐待したり、生徒がいじめに会って自殺すると、いのちの大切さが分からないのかと情けない気持がします。

しかし考えてみますと、いのちはなぜ尊いといえるのでしょうか。

いのちあっての人生だからとか、誰にも代わってもらえない一回限りのものだからといわれますが、何か説得力がありません。

何よりも、私たちは自分のいのちは尊いと思っているのでしょうか。それは、自分の都合のよい時だけです。

病気になったり、老いぼれてくると、死んだほうがましだと思ったりするのではないでしょうか。私たちのいのちは、自我に覆われています。

いのちが尊いといっても、都合によってころころ変わるのです。結局、人生はこんなもんだと変に納得して死んでいくのではないでしょうか。

仏法を聞く身になって、いのちよりも尊いものに出遇った時に、いのち尊しと手が合わさるのです。(老僧)

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掲示板(3月)


 蓮如上人の御文(おふみ)に、「無始よりこのかたの無明業障(むみょうごうしょう)のおそろしきやまい」というお言葉があります。

私たちはおそろしい病をかかえて、この人間に生まれてきたのです。私たちは、何か少し身体の調子が悪いとすぐお医者さんに見てもらいます。

しかし、この「おそろしきやまい」に気づくことはありません。

これは、仏法を聞いて初めて気づかせていただくことでありますが、仏法を聞いても一生気づかずして「おそろしきやまい」をかかえたまま死んでいくのです。

「おそろしきやまい」とは無明業障ということでありますが、無明とは智慧がないということです。

智慧がないとどうなるかというと、この我身に愛着して己が己と我をたてていくのです。これがすべて煩悩の元となり、深い迷いの業を造っていくのです。私たちは如来さまの深いお育てのなかで、お念仏申して、この我が破れる時が来るのです。

「自己の誕生」とは、我執によって生きる私でなく、無明業障という深い闇をかかえたまま、助けねばやまぬという如来の本願をいのちとして生きる新しい私が誕生するのです。
(老僧)

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掲示板(2月)


 「大無量寿経」には弥陀の本願が説かれていますが、それは法蔵菩薩の物語として説かれています。

久遠の昔(いにしえ)、一人の国王がおられ、世自在王仏の説法を聞いて深い悦びを感じ、出家して法蔵と名告りました。

そして、世自在王仏のみもとで、迷いの衆生を一人残らず救い取りたいという大いなる願いをたてられます。

そして、生死流転していく迷いの衆生の有り方をどこどこまでも見届け、一人ももれることなく摂取する浄土を壮厳するため、五却という計り知れない時をかけた思惟に入られます。

そして、その誓いを成就せんため、兆載永却(ちょうさいようごう)という長い修行をされて浄土が荘厳され、願いが成就して、法蔵菩薩は南無阿弥陀仏となられたと説かれています。

このような物語は信じられないかも知れませんが、これは物語を通して宗教的真実を表わしているのです。奥能登の農婦の方は、この宗教的真実を我身の上にいただかれました。

法蔵菩薩の物語は、私を離れてあるのではありません。今現に、南無阿弥陀仏は法蔵菩薩となって、私の煩悩のなかに働いて下さっているのです。
(老僧)

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