掲示板(2月)


 「大無量寿経」には弥陀の本願が説かれていますが、それは法蔵菩薩の物語として説かれています。

久遠の昔(いにしえ)、一人の国王がおられ、世自在王仏の説法を聞いて深い悦びを感じ、出家して法蔵と名告りました。

そして、世自在王仏のみもとで、迷いの衆生を一人残らず救い取りたいという大いなる願いをたてられます。

そして、生死流転していく迷いの衆生の有り方をどこどこまでも見届け、一人ももれることなく摂取する浄土を壮厳するため、五却という計り知れない時をかけた思惟に入られます。

そして、その誓いを成就せんため、兆載永却(ちょうさいようごう)という長い修行をされて浄土が荘厳され、願いが成就して、法蔵菩薩は南無阿弥陀仏となられたと説かれています。

このような物語は信じられないかも知れませんが、これは物語を通して宗教的真実を表わしているのです。奥能登の農婦の方は、この宗教的真実を我身の上にいただかれました。

法蔵菩薩の物語は、私を離れてあるのではありません。今現に、南無阿弥陀仏は法蔵菩薩となって、私の煩悩のなかに働いて下さっているのです。
(老僧)

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雪景色

2020年 2月6日


やっと冬らしく雪が積もりました!

待っていたような、待っていなかったような雪ですが、季節を感じられるのはうれしいですね。

降ったばかりの雪はふわふわで、真っ白なところを踏みしめて歩くのがとても気持ちよかったです。
楽しませていただきました。

境内では、一晩で、足の甲まで埋まりそうなほど積もっています。
みなさんのお宅はどうですか?

5日の夜です

6日の朝です

お昼ごろには青空になりました

ゆきがこんもり

なが~いつらら!

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掲示板(1月)


よく仏法聴聞される方が、「聞かせていただいている間は有難いのですが、お寺の門を出るとすっかり忘れてしまいます」と言われます。

これは私も常に経験することです。

よき先生の話を聞いても、寺へ帰ってくるとすっかり忘れてしまいます。

そのときは筆記したノートを見て確かめることにしています。浄土真宗の聴聞において一番欠けていることは、聞いたことを我身に引き当てて考えて見るということです。

『大経』には法蔵菩薩の物語が出ていますが、法蔵菩薩は一切の迷える衆生を仏とするため、その手立を見つけるまでに、五劫の間思惟されたとあります。私一人を助けるため五劫の間考え抜かれたのです。

思惟を内観ともいいます。内観とは、自分を深く見つめるということです。智慧の念仏といわれますが、如来さまの智慧が念仏なのです。

だから、念仏申せば自分が見えるのです。自分が見えるということは、自分の煩悩が見えるということです。

そして、念仏申せば内観深まり、内観深まればいよいよ念仏が申されるのです。
(老僧)

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雪が積もりました!

2020年 1月15日


明け方、眩しい雷光と地鳴りのような雷鳴が鳴り響きました。
家が何度も揺れました(笑)

夜が明けて外を見ると、一面、真っ白!
今年は暖冬やねぇ、雪は振るんやろか、という声が聞えていたのでしょうか。一気に雪の季節が来たな~と思います。

その後は、降り続く雨でほとんど溶けましたが、その分、地面は浅い浅い池になっています(笑)

みなさんのところは、どうでしたか?

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お正月1

2020(令和2)年 1月1日


あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

今年は雪もなく、凍えるほど寒くもなく、除夜の鐘もつきやすかったです。
いつもゴミ収集でお世話になっている方が、ご家族と足を運んで下さいました。
嬉しかったです。

早朝6時。寒く、しとしとと雨も降る中、おあさじに足を運んでくださいました。

10時半から、武周の方々がいらっしゃいました。

二ツ屋の方々です。

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掲示板

2019年12月17日


西雲寺の掲示板に書かれている言葉を紹介します。

浄土真宗の教えは、お経に「聞其名号、信心歓喜(その名号を聞いて、信心歓喜せん)」とありますように「聞」の宗教です。

お念仏は称えるまま、そのいわれ、響きを聞かせていただくのです。

「南無阿弥陀仏」とは、如来さまが、迷いの一切の衆生を救わんと、私たちのために「南無阿弥陀仏」と名告り出て下さったのです。そして、その六字の名号を衆生に聞かしめ、称えしめて救おうと、今現に私の上にはたらいていて下さっているのです。

母親というものは、子どもを授かると、ただ一心に何の計らいもなく子どもを産み育てます。

そして、やがて赤ん坊は、「ママ」「母ちゃん」と親の名前を呼ぶようになります。

これが、母親になった何よりの喜びです。

子が親を呼ぶ声は、子どもの力でなく、母親の念力が呼ばしめたものです。

それと同じように、私にお念仏申す力はありません。我が名を称えせしめんという願力がはたらいて、強情な私の口を割ってお念仏が出て下さるのです。

我が名を称えよとの仰せは、久遠の親ごころの表現です。私たちがお念仏申すということは、この親ごころを聞いていくことなのです。そして、如来さまの内なる我を知らされるのです。

み仏をよぶわが声は、み仏のわれをよびます、み声なりけり(甲斐和里子)

【老僧】

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