仏法を聞かせていただくほどむつかしいことはありません。
仏法を聞かせていただくとは、如来の智慧を賜って我身のすがたを知らせていただくことです。
しかし私には、既に自分というものが確立されてしまっていて、自分と仏法との間に大きな壁が存在するのです。
仏法は、私にとってどこまでも知恵や教養であり、たとい悦ばさせていただきましたと言っても自分の思いにかなったというだけのことにすぎません。私たちは、どこまでも仏法に背を向けた救われない存在なのです。
しかし、救われない存在であることを本当に知らされたならば、そこに慚愧(ざんぎ)があるのです。慚愧のこころがお念仏となって下さるのです。しかし親鸞聖人は、自分には慚愧のこころさえもないと言われるのです。ご和讃をいただきましょう。(老僧)
無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀回向(みだえこう)の御名(みな)なれば 功徳は十方にみちたもう (正像末和讃)