掲示板 7月24日

一声のお念仏はまことに尊いものでありますが、なかなか称えられるものではありません。

昔からお念仏のおいわれを聞くのが聴聞だといわれますが、この南無阿弥陀仏の六字のみ名に如来さまの大悲のおこころのすべて、そして私たちの救われる道理があらわされているのです。

その道理を「機法一体(きほういったい)」の道理といいます。

機とは、南無阿弥陀仏の法によって救われていく私たちのことです。

法とは、この私たちを必ず救おうという阿弥陀の法です。

阿弥陀仏は「機法一体」となって私たちを救おうとされるのです。

南無という機をおさえれば、罪悪深重という「助からない機」、法は「いかなる罪業のものも助けよう」という阿弥陀仏の法のはたらきです。

この南無阿弥陀仏の六字のみ名に永遠に救いのない機、その機を救おうという法がはたらいているのです。

私たちは南無阿弥陀仏という六字のみ名を仰いで、「南無の機」をつかまなければなりません。

そこに罪悪深重の助からない私としての南無の座を賜るのです。

そこに出て下さるのが、まことの念仏です。 (老僧)

掲示板(3月30日)


掲載が遅くなってしまいましたが、3月の掲示板です。

ふきのとうが食卓をにぎわし、梅の花が咲きほこり、待ち遠しい春の訪れを感じさせてくれる頃となりました。

私は小鳥が好きで、以前イカル(まめころばし)を飼っていましたが、これも春告げ鳥です。

しかし、ここ数年その鳴き声を聞いたことがありません。

さて、春告げ鳥の代表はうぐいすですが、いつ鳴いてくれるのか待ち遠しいことです。皆さんはうぐいすが鳴いたのは春になったからであると思われるかもしれませんが、そうでは ありません。

春の陽気に催されてうぐいすが鳴いたのです。大地の中に眠っていたミミズやカエル、蛇たちも春の陽気に催されてもぞもぞしていることでしょう。

私たちがお念仏申すのも同じことです。私が賢くてお念仏申すのではありません。弥陀の本願の催しによって念仏申させていただくのです。十劫(じっこう)の昔より、本願の名号が私たちに念仏申せと呼んでいて下さるのです。(老僧)

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掲示板(2月16日)


仏法を聞かせていただくほどむつかしいことはありません。

仏法を聞かせていただくとは、如来の智慧を賜って我身のすがたを知らせていただくことです。

しかし私には、既に自分というものが確立されてしまっていて、自分と仏法との間に大きな壁が存在するのです。

仏法は、私にとってどこまでも知恵や教養であり、たとい悦ばさせていただきましたと言っても自分の思いにかなったというだけのことにすぎません。私たちは、どこまでも仏法に背を向けた救われない存在なのです。

しかし、救われない存在であることを本当に知らされたならば、そこに慚愧(ざんぎ)があるのです。慚愧のこころがお念仏となって下さるのです。しかし親鸞聖人は、自分には慚愧のこころさえもないと言われるのです。ご和讃をいただきましょう。(老僧)

 無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀回向(みだえこう)の御名(みな)なれば
 功徳は十方にみちたもう
  (正像末和讃)

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掲示板(1月18日)


「あえぐように生きているというほかない」

これは、大谷派の学僧・安田理深先生の晩年のお言葉です。
お弟子が「いかがお暮しですか」とお尋ねしたところ、「あえぐように生きているというほかない」というお返事だったそうです。


安田先生は在家のお生まれで、一生僧籍も持たず定職にもつかず、哲学、仏教そして真宗の教えを究め、一生請われるまま全国に仏法を説いて一生を終えられた方です。


私はこのお言葉に深いものを感ずるのです。「あえぐように生きている」というお言葉は、単に老齢になったからというのではないと思われます。私たちも、あえぎながら生きているのではないでしょうか。家族のこと、仕事のこと、お金のこと、病気のこと、老いのことなど、あえぎながら生きているのです。昨年からコロナウイルスが私たちの生活に暗い陰をおとしています。


安田理深先生のこのお言葉に、私は「あえぎながらお念仏に背中を押されて生きているのだ。そして、あえぐように私は仏法を求めているのだ」とおっしゃっているように思われるのです。(老僧)

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