2020年9月27日
仏法において、無明煩悩とか無明業障(むみょうごっしょう)という言葉があります。
それらは、「私」という深い執着の殻の中から一歩も出られない迷いの有り方を表しているのです。
私たちは、自分を確かなものとして、自己を主張して生きてきました。
そこには仏教で説くように、他の存在との関わりの中で生まれ今まで生きてきながら、他の存在は私の身体の中を通りすぎる風景でしかないのです。
他人の悲しみや苦しみ、喜びは、私にとって一つの「話」であり、私のいのちの中に食い込んでこないのです。
「寄り添う」という言葉がよく使われますが、他の人たちの悲しみや苦しみに寄り添うことほど難しいことはありません。
本当に寄り添うことは、仏さまにしかできないことではないでしょうか。
そこに凡夫としての悲しみがあるのです。
私たちは、癌になればお医者さんにかかります。
しかし、無明業障という恐ろしい病にかかっても、自覚することはできません。
そこに、弥陀の大悲がこの私にそそがれていることを知らせていただく以外にありません。(老僧)