よく仏法聴聞される方が、「聞かせていただいている間は有難いのですが、お寺の門を出るとすっかり忘れてしまいます」と言われます。
これは私も常に経験することです。
よき先生の話を聞いても、寺へ帰ってくるとすっかり忘れてしまいます。
そのときは筆記したノートを見て確かめることにしています。浄土真宗の聴聞において一番欠けていることは、聞いたことを我身に引き当てて考えて見るということです。
『大経』には法蔵菩薩の物語が出ていますが、法蔵菩薩は一切の迷える衆生を仏とするため、その手立を見つけるまでに、五劫の間思惟されたとあります。私一人を助けるため五劫の間考え抜かれたのです。
思惟を内観ともいいます。内観とは、自分を深く見つめるということです。智慧の念仏といわれますが、如来さまの智慧が念仏なのです。
だから、念仏申せば自分が見えるのです。自分が見えるということは、自分の煩悩が見えるということです。
そして、念仏申せば内観深まり、内観深まればいよいよ念仏が申されるのです。
(老僧)