被災地を訪れました 熊本編

2016年 6月26日、27日


長崎の島原半島から熊本へ向かうには、有明海をフェリーで渡るのが近道です。
けれど、地震の影響で、熊本港から市街地へ向かう交通の便が整わず、
仲間たちの誘いもあって、鉄道で有明海を一周しながら向かうことにしました。

益城町の友人は、ちょうど1年前、福井に来てくれています。
そして4月13日にも、1ヶ月後に再会する約束のメールを交わしたところでした。
翌日14日、こんな大変化が待っているとは思いもせず…
本震と言われた16日の震源地は、その友人のお寺から1kmほどしか離れていません。
どんなに揺れたことでしょう…
まずは、友人を訪ねるのが第一の目的でした。

友人のお寺では、門徒さんが亡くなっておられました。
ただ、お寺の建物は、新築したばかりで無事だったようです。

私が訪れた時は、地震から2ヶ月ほど経過しており、道路はほぼ復旧していました。
友人も、日本の道路工事の技術とスピードを目の当たりにして、感服したといいます。
しかしながら、案内してもらった益城の家並みは、震災当時のままでした。

友人は、普段お参りに歩くような裏道を通りながら、つぶさに案内してくれました。
ここで大切な人がなくなっておられるのでした。

今回の熊本訪問の、もう一つの目的は、地震で不自由な思いをしている子供たちを福井へ招待することでした。
そのため役場にも向かいましたが、大勢の人でごった返していました。
ちょうど、り災証明書の発行が始まり、生活債券支援金申請をする方々や
り災の危険度判定(全壊か大規模半壊か一部損壊かという判定)に納得いかない方々が、次々と詰めかけ、
電話回線も話し中の状態が続いていました。

役場の方々も大変な様子でした。
役場の建物は危険で使えないのですが、それでも薄暗い照明の中を、職員さんが頻繁に出入りしていました。

外では、あちらこちらで応急仮設の建設が始まっていました。

この後、友人の案内で熊本市役所や東区役所も訪れましたが、益城町と同じようなあわただしさ…
これから7月~8月にかけて、仮設住宅の募集、抽選、移住が始まる、そういった目まぐるしいタイミングでした。

友人が話してくれた中で、一番印象に残ったのは、
「地震からしばらくは、みんなが助け合って、人がとってもあったかかった…
 でも、そんな期間は短かった…」というつぶやきでした。
しばらくすると、人と比べるということが起こるんだそうです。
うちは応急危険度が低すぎるとか、うちは両親を引き取らざるを得ないとか、
うちは仕事を失ったとか、うちは田んぼが割れたとか、
同じ被災者同士で、ねたみ合い、いがみ合いが起こってしまう…

それは福島でも同様でした…
本当に悲しいこと…

そんな悲しい状況の中で、いったい何ができるでしょうか…
ただ、自分の非力さ、欲深さを逃げずに受け止め、
先人の愛と、教えに、誠実に、ならうこと、
ゼロでもともと、
ゼロに与えられた無限、
戦争や、天災や、病気や、事故で、先だって悲しみ、先だって生き抜いてくださった先人たち…
その方々を改めて想いました。